2013年3月15日金曜日

311の陸前高田・街中編

自分が初めて陸前高田を訪れたのは2011年7月で、ボラ仲間が企画した炊き出しに参加しました。当時はまだ仮設住宅が出来ておらず、公民館、体育館、小中学校などが避難所になっていて、そこにお邪魔して整体をさせていただきました。ここで今のチーム恵比寿の代表である加倉井さんと出会いました。
当時の陸前高田の街の中は瓦礫が山のように積み上がり、あちこちにぐしゃぐしゃになった車が放置?してあったことを覚えています。海沿いを走れば生臭いにおいがしていて、奇跡の一本松が遠くに見えていたのが印象的でした。また沿岸部に広がった陸前高田の街には津波で破壊された建物があちこちにあり、ショックを受けました。コンクリートの建物の外側は残っていますが、津波が通過した室内はめちゃくちゃで見るに堪えませんでした。
当時の街の様子を書いたブログはこちら
当時の活動の様子を書いたブログはこちらその1その2



そして、昨年の1月に再び陸前高田にお邪魔しました。この時はチーム恵比寿のメンバーとして参加しました。2011年7月に比べるとかなり街の中にあった山のような瓦礫が多少片付いていた記憶があります。あちこちにあった車は一カ所に集められていましたが、あまりにも多くてその数に驚きました。またコンクリートの建物もまだまだ残っていて、まるでオブジェのように見えました。
当時の活動の様子を書いたブログはこちら前半後半


2012年1月の様子

で、そこからさらに1年経った先日見た陸前高田の街中は昨年の1月に見たものと比べると、破壊された建物がほぼ取り壊されて更地になっている場所が増えていました。なので海側から町の方を見ると一面更地が広がって、その合間を道路が走っているまるでジオラマのような状態でした。ここから未来のことを考えた街づくりが始めるようです。

たまたまほぼ同じアングルの写真が見つかったのでアップしてみます。この写真は沿岸部にある雇用促進住宅と呼ばれる建物で5階建が前後に2棟建っています。前側は津波をもろにかぶり4階まで水が入りました。5階は窓も破れずに残っています。また後側は前の建物が防御壁となり難を逃れました。

2013年3月の様子
ちなみにこの雇用促進住宅は陸前高田市での保存が決まったそうです。

しかし保存するのは前側だけで後側の棟はすでに取り壊しを始めていました。たまたま後側を通ったときにも写真を撮ったのですが、半分は壊されて見る影もなくなっています。

ちなみに3月11日には希望の一本松が剥製になって披露されるはずでしたが、完成したものを見た地元の方が、枝の付き方が違う!と意見し、やり直しになったため披露が先送りになりました。なのでこの日はヤグラが組まれたままの状態で遠くから眺めるだけで終わりました。

雇用促進住宅の後側からのアングル
陸前高田では保存する建物と、取り壊す建物をはっきり分けていて、以前はあった市役所や高田病院などはすでに更地になっています。被災した大きな建物をすべて保存するにはカナリのお金がかかるため、取り壊さざるを得ない状況のようです。また昨年何度となく通った気仙沼の鹿折駅前のタンカーも持ち主が撤去を求めているそうです。残せばお金がかかる、残さなければ忘れられてしまうという相反する状況の中で苦渋の選択をしなければならない行政や地元の方の思いは複雑だと思います。

これらの写真はほんの一部です。マスコミの報道を見て「復興している」と思われている方もいるかも知れませんが、現地で目にする情景はとても復興とはほど遠いものです。どうか小さな事でも構わないので被災した地域のことを心にとめていただけたらと思います。

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今回の午後の活動はこちら

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